親父の心境 Vol.1
   (平成16年1月)

昨年の正月明けに「付き合って5年も経つんだから、顔ぐらい見せに連れて来い!」と娘に言って、連れてきたのが写真の彼。
その時も丁度右の写真の雰囲気です。

実は連れてくる前数日間はこちらも、親父としてどのような「顔」をすればいいんだろうと考え込んでしまった。

真っ先に浮かんだのがドラマ「北の国から」のシーンで、「シューちゃん」が「純クン」を連れて実家に挨拶に行った場面だ。シューは純を居間で父親に紹介するが、父親はテレビばっかり見てて「純」を無視して会話がなく、完全に白けた雰囲気。結婚した女性の生徒さんにも聞いてみたら、カレを紹介した時はやはり父親は全然話をしなくて気まずい雰囲気だったらしい。

「ずっと可愛がった娘を取った奴」と取られた「元カレ」のような親父のまるで三角関係。
そんな関係でニコニコ話などできるものだろうか?
娘が連れてくるヤツは「敵」なのか、はたまた「味方」なのか? 一体何者なのだ。

可愛い娘を人質に取られてるようなものだから、敵にまわすと厄介だし、味方にすれば「元カレ」の親父としてはちょっと悔しいし‥‥。
親父というものは誰でもきっとこうゆう心境だろう。
などなどと頭の中で混乱して、「元カレ」として考えがまとまらない内に会う日になった。

妻や息子が焼肉ジュージューを用意し、私はお得意の「サザエのつぼ焼き」や「ハタハタ」そして「ホタテ貝の焼き物」などを用意していると、娘が敵なのか味方なのか訳のわからん彼を連れてきた。

「よっし勝負だ!」と思って意を決すると、「長い間ご挨拶もしないでお付き合いさせていただき、申し訳けありませんでした」と明るくしかも丁寧に深々と頭を下げてきた。
瞬間的に「コイツはいい奴だ」と思った。

後は飲みながら5時間ほどあっという間に時間が過ぎてしまい、白けるどころかほとんど和気藹々爆笑ものの宴会になってしまった。

「もう夜も遅いのに、お父さんが彼を離さないから帰れない」と娘が陰で涙ぐんでいたようだった。
会って話しをしたら敵でも味方でもない、1人息子が増えた感じがして、妙に嬉しかった。

子供の結婚というものは、別々の親の元を巣立って新しい家庭ができるってことですね。
いつの間にか「子供が結婚をする親父」として、人生の役回りが来たようだ。


親父の心境 Vol.2
    (平成16年4月

実は今回の「ハワイ挙式」はちょっと気が重かった。
どうもこうゆう神妙な雰囲気は苦手で、特に“バージンロード” を娘と歩かなければならないということが悲痛にも似た気持ちだった。

周囲からは 「絶対、お父さん泣くよ」とか「当日は先生泣くんじゃないですか」などと冷やかし半分に予告されていたので余計だった。
娘からも「お父さん泣くから」とハンカチもプレゼントされるし‥‥。
サングラスとマスクを着けて登場しようか、しかしそれでは怪しいし、それともむこうのお父さんに替わってもらおうかなどと真剣に考えたほどの心境だった。

《結納・一泊旅行》

そんな重い気持ちになったのは、1月の下旬に両家で “結納・一泊温泉旅行” に出掛けた時からだった。

結納金や結納七品目の交換はお互いにしないようにお願いして、その替りに「温泉でも浸かって、一杯飲んで、記念品だけの交換」という設定で、あまり形式にこだわらないようにしてもらった。
でも、「結納」という儀式は“両家が結びつき” その証しに “物を納めあう”というのが本来の意味なので、この意味は大切にしたかった。

結納・温泉旅行は鬼怒川だったので、一日目は日光を皆んなで観光した。
そして「男鹿園」という日本庭園がとても素晴らしい旅館に着いた。
この「男鹿園」はマサのお父さんがよく使われる旅館で、予約や結納の会場の計らいなどとてもお世話になった。

マサ(新郎)と一緒にゆっくりお風呂に入って、そして宴会。美味しい料理を食べながら、両家で和やかに歓談。
マサがどうしてもギターを弾いてほしいとのことだったけど、クラシックギターを弾く雰囲気ではないと思ったので、ウクレレを持参していた。

宴会も盛り上がったところで、ウクレレソロを何曲かご披露。
向こうのお母さんは「お父さんがウクレレを弾きながら唄って、お母さんがハワイアンを踊るのかしら」と思っていたらしいが、
それをやったらきっと “日光サル軍団” より面白かったと思う。

そして翌日の朝が “結納” の儀式。
“結納” と言っても両家とも記念品の交換だけで、「掛け時計」を頂くだけになっていた。

部屋で「桜湯」をいただき、“結納” 会場へ。
立派な屏風が立てられ、真っ白い布が掛けられたテーブルが用意されていて、旅館の特別なはからいもあり、やはり儀式らしい設営だった。(ちょっと緊張が走った)

向こうのお父さんの友人の有里さんと旅館の社長さんが立会人を務めていただく中、両家の記念品が交換された。(写真)
記念品の交換だけだから、実はかなり気楽に構えていた。

この“結納会場” に入る廊下で、有里さんから軽く背中を叩かれて、「お父さん、気落ちしないように」と言われた。「全然大丈夫ですよ」と明るく答えたが、私の様子はちょっと元気がなかったようだった。(有里さんには大変にお世話になりました)

相手のご両親から我が家と娘たち2人へ、我が家から相手のご両親と2人へ、2人から両家へと記念品が順々に手渡されていった。
そして最後に、マサから娘へ「婚約指輪」が贈られた。

娘の満面の笑みがマサに向けられた。
これ以上ないとても幸せそうな二人の笑顔だった。
小さい時からいつも私達だけに向けられていた笑顔だった筈なのに‥‥と思った。

この時、娘が竹の中から生まれて、天女になって空に帰っていくあの「かぐや姫」に見えた。
光る竹の中から生まれて、大人になるまで「竹取の夫婦」のもとで楽しく暮らして、ある日突然「天の使者」が迎えに来て、天上へ一緒に行ってしまう‥‥。というあの「かぐや姫」の話だ。

私は取り残された“竹取の翁” でマサが “天上の使者” 、そして「使者」と共に「かぐや姫」は天上へ‥‥。
そう思ったら、不覚にも留め止もなく涙が溢れてきてしまった。

そんな私を見て、今度はマサがウルウルしてきて、言葉にならない挨拶をした。
目がグシャグシャになりながらも、懸命にご両親に感謝の気持ちを伝えていた。
マサの誠実な人柄に胸を打たれた。

マサの涙声を見たら、もうこちらも余計駄目になり、私の挨拶などはもう声が出なくなってしまった。
その時、「娘は結婚 して、家を離れて行くんだ」ということを初めて実感した。

娘が生まれてから24年間私達夫婦と一緒に暮らしたが、とても楽しい時間だった。

家族で毎年のように九州の実家に行ったり、保育園や学校の運動会、公園、動物園、東京のおばあちゃんのうち、手賀沼のボートこぎ、そして少し大きくなってからはスキーやテニスも皆でした。
喘息が出た時は夜中中背中を叩いてあげたことも‥‥。

そして受験や就職、いつの時代も家族4人が一緒だった。
そして、どんな時も子供たちの笑顔はいつも私達に向けられていた。

結納の席で、「婚約指輪」を渡された時の娘の マサに向けられた“笑顔” ‥‥‥。
この時から、私は “竹取の翁” の気持ちをずっと引きずっていたので、「ハワイ旅行」は気が重かった。
頭では十分理解はしていたが‥‥。


娘とマサは両親や親戚の人達に喜んでもらおうと、この旅行を一生懸命計画していた。
娘とハワイの雑誌を見て、「ここがいいよ、あそこがいいよ」 といろいろ家族で盛り上がり、話は一生懸命合わしていたが、気持ちはどこか沈んでいた。

それからは毎日の何気ない普段どおりの4人の生活をいっそう大切にした。
娘はハワイ旅行のしおりや挙式のカードを手作りし、妻は台所仕事、息子はパソコンで大学の課題をしたり、私は寝っ転がってチューハイを飲みながら新聞読んで‥‥。
居間で4人がそれぞれ別の事をしていて、何の話をしなくても、ただそれだけで気持ちが安らいだ。

《ハワイ・挙式旅行》

そして、いよいよ「ハワイ挙式旅行」。
成田から飛行機に乗ったら、17名全員の機内用のスリッパが用意されていた。
8時間の長旅で靴を履いていたら疲れると思って二人が用意したものだった。この心遣いは嬉しかった。
昨年の8月に二人は下見を兼ねたハワイ旅行をしていて、もうその時からいろいろなことを話し合っていたんだと思った。

飛行機、式場、観光、レンタカー、レストラン、衣装などの細かい手配、打合せは全て二人で行った。
さらに、旅行日程や持ち物リスト、プロフィール、ゲスト名などを記載したしおりや挙式パーティーの席表など、パソコンで仕事から帰った後寝る時間を削って作成していた。
私達が旅行にかかわる事をしたのはパスポートを取るだけだった。(これは本人でなければできない)
費用も二人が一緒に貯めたお金で、自分達の挙式・旅行費用を全て賄った。
同行する私達や親戚の方は自分の旅行費用だけだったのだ。

二人が家族や親戚と一緒に海外旅行をして、皆に喜んでもらいたいという気持ちが痛いほど伝わってきた。

ハワイに着いた日は夕食の時間まで自由行動だったので、一人海に行って泳いで浜辺で寝転がった。
次の日が挙式だったので、皆と一緒にいるより、一人になりたかったからだ。
一人でボンヤリ考えて、ずっと海を見ていたら、しっかり日焼けして真っ黒な顔になり、妻に怒られた。
マサのお母さんからも “お父さん、海に行くのはもう一日後が良かったですね” とニコニコしながら言われてしまった。
よく考えたらそのとおりで、新婦の父が日焼けしたまっ黒い顔(それでなくても黒かったけど)していたら様にならない。

ハワイに来てからの二人の心遣い、家族や親戚、ご両親の笑顔、鮮やかな空と海、本当に和やかでなひととき・・‥、そして、そのことで随分心が癒された。

そして、挙式の日を迎えた。
リムジンに乗って教会に着くと、そこは別世界のように美しい所だった。

教会内部の正面には五つの小さな窓があり、そこからは真っ青な海と白い雲、そして娘が小学生の時から祈っていたという “結婚式は青い空” が広がっていた。(右写真クリック)

マサが「天上の使者」でサチが「かぐや姫」で二人で空に帰っていく場所としては最高のロケーションだった。
でも、マサもサチもドレスアップはしていたが、いつもの子供達だった。

そして、この小さな教会でバージンロードを娘と歩く練習をしたりしたが、その時からもう “竹取の翁” でもなければ “悲しみの新婦の父” ではない自分に気付いた。
本当に祝福したい気持ちと嬉しさが一杯だった。

そして本番。
両脇のイスに15名が参列している教会の祭壇に向った。
“アベマリア” を唄うふくよかな女性の声が教会内部全体に綺麗に響き渡った。そしてオルガンの結婚行進曲が流れる中、マサが海の見える向こう側でポツンと待っていた。

娘を左腕に組んでバージンロードを歩いたが、緊張も涙もなく、何かとても晴れ晴れしい気持ちだった。
そして、マサと握手をして、娘を渡した。
もしこれが日本の通常の結婚式だったら “竹取の翁” のままで絶えられなくなっていたと思う。

それからは、日本に帰る日まで毎日がとても賑やかで楽しい日々だった。
マサのお父さんとジェットスキーや実弾撃ちをしたり、息子とバイクでツーリングしたり、豪華な食事をしたり、マサとサチの部屋に行って夜景を見ながら飲んだり‥‥

皆が楽しそうだった。
マサのお母さんはいつもニコニコして笑顔を絶やさないし、そして人の喜びを一緒に喜べるような優しい人で、お父さんはジェットスキーではしゃぎ回って楽しそうだった。妹さんのマキちゃんもとても明るく可愛い人で、マサの家族はとても良い人達ばかりだった。

最後の夜、皆がマサとサチの部屋に集まって、出来上がったばかりの「挙式のアルバム」を見ながら夜遅くまで騒いで飲んだ。皆は先に帰ってしまったけど、三人でアルバムを見ながら、写真談義で話が盛り上がってしまった。

そして翌朝、私達15名はマサとサチに見送られてハワイを立った。
ハワイでは私たちの世話ばかりしていたので、それからが二人の本当の新婚旅行で、アメリカで一週間旅行を楽しむようだった。

もう、結納の時のような「竹取の翁」の心境は全くなく、何故か爽やかな晴れ晴れとした気持ちになれて帰ってきた。子供達が楽しく幸せであれば良いことで、親が悲しむ必要なんて全くないと思った。
結婚して何処に行ったって、娘であることは変わりないし、永遠に私達の娘なんだから。
そして、マサとだったら立派な楽しい家庭が作れると思った。

それからは、今度いつマサとサチに会えるだろうか?ということが待ち遠しい楽しみになった。

二人の新居が決まって落ち着いたら、“マサッチ” へマサのお父さんお母さん、マキちゃん、そしてうちの家族皆で引っ越し祝いに押しかけて行こうと思っている。


私達も結婚して25年。
「娘の結婚」は今までの我が家にとって最大のイベントだった。
5歳のお誕生日を祝ってあげてから、もう今年で20年が経ったんだ・・・。

平成16年4月