大学2年生 〜 続き

《初めての定期演奏会》

今まで大学祭での学内コンサートしかしていなかった「名城理工ギターアンサンブル」部も、私が大学2年生の時に初めての「定期演奏会」を開くことになりました。

このクラブは、昭和43年に有志数名で当初「ギターハーモニー」として発足し、数年後に上記の名称に変更したようです。ですから創立6年目にして初めての学外コンサートになったわけです。

部員は4年生2人、3年生2人、2年生6人、そして1年生4人で、全員でも僅か14名です。
しかも、2年生の3人と1年生全員の4人にいたっては大学に入ってからのギター歴しかない状態です。
しかし、ギター教室に行っていた部員数名が、教室で習った事を初心者の部員に教えることで、随分技術的にも進んだようにも思えました。

「定期演奏会」を計画してからは、「南山短期大学ギター部」「中京大学ギター部」「名城大薬学部ギター部」など、近くの他大学との交流もさかんになりました。
特に中京大学などは部員が40名近くいて、合奏用ギターを導入するなどかなり本格的な合奏団でした。

春あたりから演奏会の合奏曲や二重奏曲を決めて、春と夏の合宿を経て、そして11月21日にいよいよ「中区役所ホール」で本番を迎えました。演奏会用のチラシ、アンケート、カンバンなどは殆ど手作りで、毎日部室で仲間と夜遅くまでやってきました。




当日の演奏曲目は 
第一部 合奏
ペルシャ市場にて、2つのガボット(バッハ)、管弦楽組曲2番より

第二部 二重
/ ソナタニ長調、4つのメヌエット、ロンド(カルリ)
    独奏 / 太陽がいっぱい、鉄道員、ロマンス、ショーロ、アストリアス (*この独奏はギター教室の先生の賛助出演)
第三部 合奏 / アレグロビバーチェ、スペイン小夜曲、愛のロマンス、真珠とりの歌、シシリー風舞曲、         シューベルトのセレナーデ

でした。私は二重奏で「ソナタニ長調」(シャイドラー)を演奏。この曲は一昨年のオークの発表会でダイゴさんと30年ぶりに弾いた曲です。(写真)


当日は交流のある大学からもかなり聞きにきてくれたので、会場も多くの方が来られたようで大盛況でした。
「演奏会」を半年間ずっと目標にしていたので、終わるとかなりの虚脱感に襲われてしまいました。


《初めてのガールフレンド“ひみ”その2》

初めてのデートから、私も“ひみ”も大学の夏休みで田舎に帰ったり、演奏会の練習などで忙しくなかなか会えませんでしたが、10月になってやっと会えるようになりました。

実は2回目のデートのことはほとんど覚えていません。
何処で会って、どんな所に行ったのか‥‥。
ただ、いろんな話をしているうちに夜も遅くなってしまったので、ドキドキしながら「俺の下宿に泊まっていく?」と誘うと、小さくうなずいたことを覚えています。
下宿の近くのお好み焼き屋さんで、お気に入りの「ヤキソバ定食」を2人で食べて、私のあまり綺麗でない部屋に泊まってくれました。

それからも月に2、3回の土曜日は私の部屋に泊まりに来ました。
大学の女子寮にいたので、同僚の子には和歌山の「実家」に帰るとウソを言っていたようです。
私の部屋に来る時は、他の下宿生に感ずかれないようにソッと部屋に入って、小声で話したり、笑ったり‥‥。
でも私がギターを練習すると、構って貰えないのが寂しいようで「ギター弾かないで」と言っていました。

そんな他愛もない“恋愛ごっこ”が続いていたある日、「ノブユキの為にスキヤキ作ってあげるけんねん」と言って材料を買ってきてくれました。でも、私の調理器具は電熱器だけで、今のように卓上コンロなどない時代です。
「作れるの?」と聞くと、「大丈夫よ」と言って作り始めましたが、本人も作ったのが初めてのようで、それはヒドイ「スキヤキ」でした。でも、お互い「何とか食べれそう」と笑いながら食べました。

年が明けてからは毎週会うようになって、お互いの気持ちも急激に加速していきました。


《ヤバそう 留年!》

そんな楽しい日々が続いていましたが、大学は2年生から3年生に上がる為の単位数がかなり「ヤバイ」状況になっていました。

“ひみ”は短大だったので、3月になったら卒業でした。
私は、もし留年することになったら、大学は中退して「東京にギターの勉強に行こう」と思っていましたので、東京で働くつもりでした。そしてそうなったら、“ひみ”も一緒に東京へ行って、2人で一緒に住もうと話をしていました。

そして、もし3年生になれて、“ひみ”が名古屋の幼稚園に就職したら、「私がノブユキのこと養ってあげるけんねん」と笑って言ってくれていました。

それからは友達からノートを借りたりして、最後の追い込みの勉強です。(どうも私っていつも最後の最後で、お尻に火が付いてから集中するタイプです。)

そして私は無事3年生になんとか進級できました。
でも、“ひみ”は名古屋に就職しないで、和歌山の実家に帰って、地元の幼稚園に勤めることになったのです。
そう決めた“ひみ”に、私は、「俺と一緒に住んでも、先の事はどうなるか分からないから、そのほうがいいよ」と言いました。

彼女からすると、相当に悩んだ末の選択でしたので、仕方がない成り行きでした。
そして、2人でいた最後の日に「私はノブユキと離れたら何にもないけど、あなたにはギターがあるけん」とまるでギターにヤキモチを焼くかのように泣いて言いました。

それから1ヶ月ほどして、お母さんと一緒に写っている写真と手紙が来ました。
楽しく働いているようで安心しましたが、それ以来“ひみ”からの連絡は、ぷっつりと途絶えてしまったのです。