やっと大学生だ

《下宿生活》


最後にしかも二次試験でやっと合格したのが、名古屋にある名城大学理工学部建築学科でした。

まずは定住する場所を確保せねばと思い、大学の学生課で紹介してもらったのが「高木荘」というところ。
大学から歩いて15分ほどで、大家さんの家を挟んで女子棟と男子棟がある大きな下宿でした。
女子は7、8名ほどでしたが、男子は20名入居していました。男子棟は1階、2階とも通路を挟んでそれぞれ5部屋ずつあったので合計20部屋で、満室でした。

トイレ、炊事場、洗濯機、お風呂は全て1階にあり共用だったので、各部屋は四畳半一間と押入れだけという現在からすると恐ろしくシンプルなものです。
私の部屋は2階の一番端で、外階段を上がってすぐのところでした。

近くには南山大、中京大、福祉大、名城大薬学部、名古屋大、そして名城大と多くの大学があったので下宿生も様々。でも半分以上は名城大学の理工学部や法学部や経済学部生のようです。

いつもどこかの部屋でマージャンの音がしたり、外で何人かの話し声がしたりと賑やかな下宿でした。
私の隣の住人は4年生2回目の留年生で、数少ない年上の先輩。前の部屋は井上揚水がお気に入りの1年生と下宿生もバラエティに富んでました。

その年は新入生が多く、2階の通路での歓迎会や下宿生全員でのバス旅行など、下宿生同士の交流も多かったので、比較的早く下宿生同士馴染めたようです。
私はほとんど下宿に帰るとギターばかり弾いていたので、いつしか「ギターマン」が私のあだ名になっていました。

食事は自炊でしたが、ほとんど安い学生食堂で食べていたので、下宿ではラーメン以外作ったことがなかったですね。栄養が行き届かなかったせいか、今よりちょっと痩せていました。

掃除や洗濯もほとんどしていなかったので、きっとひどい部屋だった筈です。
下着などは一度着たものは押入れのダンボール箱に突っ込み、全部使ったところで、今度はそれを裏返しにして使う、といったひどいナマケモノ状態で、さらにジーパンは履きっぱなしで、髪の毛は伸びたら自分で前髪を切るといった様子です。これが私の学生時代の姿です。

でも、とても居心地の良い下宿だったので、大学四年間ずっとお世話になりました。

《ギター部入部》

入学式のあったその日に入部したのが「理工ギターアンサンブル」というクラブです。

軽音楽部やギターマンドリン部などの音楽系のクラブもいくつかありましたが、クラシックギターが中心になっていたのはここだけでした。

学生食堂の脇に5階建てのクラブハウスがあり、登山、サイクリング、無線、空手、軽音楽、写真‥‥などさまざまなクラブの部室になっていました。3階の奥から2番目の部屋がギター部です。

薄暗い通路にコンクリートが打ちっぱなしの壁で、綺麗な講義室とは大違いの雑居ビルのようところでした。
でも、ここが大学の中で一番のお気に入りの場所で、講義の途中抜け出して、クラブハウスの入り口にある紙コップのコーヒーを買って、それを飲みながら一人でギターを弾くのが好きでした。

このクラブはほとんどが理工学部生で、ギターが好きな人達がたまに数名集まっているというところです。
さすが理工学部は、実験、実習、ゼミ、卒論とかなり忙しそうで、ギター部としての活動は定期的にコンサートをすることもなく、唯一大学祭の時に講義室でギターを演奏する程度でほとんど活気のないクラブでした。

私の入った年は文科系からの入部も数名いましたが、それでも全員で十数名の規模。そのほとんどが初心者でしたが、文化祭に向けての初めての合奏経験や二重奏は今まで味わったことの無い新鮮な楽しさでした。

写真は部室でのもので、一番左の上が私。

《新しいギターと吉本教室に入門》

私の持っていたギターは大分のデパートで買った当時12000円の安いヤマハ製ものでした。

ギターを始めたばかりだったし、余分なお金も使えなかったので仕方はありませんでしたが、ギター部に入部して少し良い楽器の刺激を受けたようです。

高校を卒業して働いたお金もあったので一大決心。新しいギターを買おうと思ったのです。
名古屋の中心にある大きなギター専門店に行き、ショウケースに陳列してあったギターを一本ずつ取り出してもらい、ガラスで仕切られた無音室で5、6台をじっくり1時間以上かけて弾き比べました。

そして「これだ!」 と選んだのが当時6万円の「茶位幸信」のギターです(現在では20〜30万円位のもの)。
茶位幸信はバイオリンからギターに転向した製作家で、日本名工の一人。
薄く、押え易い黒檀の指板、柾目が綺麗な松の表面版、弾きやすく柔らかな音色、そして均整がとれたデザイン、どれをとっても素晴らしいギターでした。

新しく手にした茶位ギターが嬉しく、弾かない時は部屋の壁に立てかけて、その美しさに見とれるほどでした。大学に行く時もいつも持ち運び、部室や下宿で練習していました。このギターはほとんど私の “恋人” でした。(でも、この大切にしていたギターを、3年後に自分の手で叩き壊すことになるなんて…)

大学生活やクラブにも少し慣れた頃、ギターコンサートがあるということで部員と一緒にでかけました。
「野村・吉本ジョイントギターリサイタル」と銘打つ、名古屋の新鋭ギタリスト二人によるコンサートです。
テレビのギター教室講師の演奏以外にプロの演奏は聞いたこともない私にとってはわくわく興味深々です。
そして当日のコンサートは一番前の真ん中の席でじっと聞き入りました。

吉本氏がソロ演奏の最後に弾いたのが、アルベニス作曲の「アストゥーリアス」で、この演奏に不思議な感動を覚えたのです。私と吉本氏が演奏する距離はわずか数メートルなのに、初めの小さく弾かれるギターの音が、ずっと遠くの方から、しかも綺麗な音で響いてくるのです。
そしてメゾフォルテからフォルテとダイナミックに展開する曲想の素晴らしさにも圧倒されてしまいました。
この僅か数メートルという空間を超えてしまったギターの綺麗な音に、身震いするほど感動をしてしまったのです。
この小さな楽器「ギター」を改めて素晴らしいと思った瞬間でした。

本格的にギターを学ぼうと10月から「吉本ギター教室」に入門しました。
吉本先生は松田二郎門下生で、松田先生はジョン・ウィリアムスとの親交が深く、さらにジョン・ウィリアムスはギターの巨匠セゴビアの秘蔵っ子とされていますので、そのギターの音色は遠くは「セゴビア」の流れをくむものて゜、中部ギター界でも突出して綺麗なものでした。

吉本先生は現在でもコンサートやCDを出されて中部地区で活躍されていますが、そのレパートリーを見ると私もかなり共通した曲が多いので、知らず知らずのうちにも影響を受けていたようです。

ギター教室入門は私にとって生まれて初めての“習い事”です。自己流で今まで練習してきたことを全て初めからやり直ししました。
今まで簡単に弾いていたつもりの曲が“音楽”として弾く難しさ、音色を決める右手のタッチなど、本格的に習うといろいろなことが見えてきて、一気にギターの世界が広がりました。

レッスンで出される課題は、その日のうちに弾き込み3日目にはほとんど仕上げていましたので、指定の初級教本は1ヶ月で、中級教本は2ヶ月で終了でした。その後はバッハ、ビラロボス、ソル、タルレガなどの曲を中心に勉強していました。

そして3年あまり吉本先生の下でお世話になりました。
結局私の人生でレッスンを受けたのはこの時期だけでしたが、私の演奏法や曲の解釈などは全てこの時のものが基本になっています。

写真は合宿時のものです。

《真夜中のコンサート》

下宿生活にも慣れた7月1日に、下宿生と大家さんの家族とのバス旅行がありました。(右写真。私は後ろの左から2番目)
そのバス旅行があった夜中に、コンコンと私の部屋のドアをノックする音が聞こえました。

「こんな夜中に誰だろう」 と思ってドアを開けると、昼間のバス旅行でも一緒だった女の子が3人ドアの前にいて、「ギターを聞かせてもらえませんか?」と尋ねて来たのです。
顔は知っていても、ほとんど話をしたこともない女の子達です。
3人はいずれも名城大法学部の1年生で、私がいつも部屋でギターを弾いていたので興味があったようです。

人前でギターを弾くなんて考えてもいなかったので、初めはこちらも随分緊張しましたが、徐々にいろんな話をしながら、いつの間にか私もリラックスしてギターを弾いていました。
曲の説明をしながら、おしゃべりしながら20曲以上は弾いたと思います。特に「アルハンブラの思い出」はとても好評で何回か弾いてしまいました。

ギターや大学のこと、希望する大学の受験に失敗した話など色々な事を語り合いました。
私が3年も遅れて大学に入り、ギターに夢中になって、好きな事があることが驚きのようでした。
3人とも希望の大学に入れず、無念の名城大学だったらしく、私のこれまでの遠回りな生き方に感じるものがあったのかも知れません。

その後、ヤマダさんとカムラさんは受験勉強をやり直し、それぞれ希望の大学に無事合格したようでした。
転居先の2人から手紙を貰いましたが、この4人で語り合った一夜がとても印象深かったようです。
結局3人が帰ったのが朝方で、あたりも明るくなっていました。

そしてこの時の1人が “みき”(仮名) で、それから2年後に思いもよらない新たな展開が2人の間で始まります。

この写真の裏に 「S48.7.1 高木荘の下宿生と1日バス旅行。この日帰った夜 みき、ヤマダさんカムラさんの3人がオレの部屋に来てギターを聞いた。次の日の朝まで弾いてしゃべくりまくった。 “みき” と初めて話した日 」 とメモ書きされていました。当時の私にとって、大切にしたい一日だったのでしょう。

写真は左から“みき”(後ろを向いている子) 、ヤマダさん、カムラさん、下宿の子供を挟んで私。


ちょっと大学生活から離れますが……

《腹違いの兄と父》


名古屋には母以外の肉親が実は全員いました。
昼間働き夜学に通うすぐ上の兄、大学を卒業して結婚し父の会社で働く一番上の兄、そして戸籍の違う父とその家族です。

大学に入学してしばらくして一番上の兄から連絡が入りました。
“ミチト”さん(仮名)に会ってみるか? ということでした。この“ミチト”さんは父の息子で、私の「腹違いの兄」です。

父は仕事での業績を評価されて国から勲章をいただくなど、建設技術者で特許を多く持つ発明家でもありました。
その頃は自分の特許を製品化して販売する会社を持っていて、名古屋に大きな家を持ち息子家族と一緒に住んでいました。
父は青森の小学校しか出ておらず、大工職人から身を起こした苦労人で、父の業績などは全て母から聞いて知っていて、私の密かな誇りでもありました。

まさかそんな父の息子に会うなんて思いもよらないことです。
一番上の兄は父の援助の下で大学を卒業し、父の会社にも勤めていたので、その兄と父の息子との間に多少とも交流があっても不思議ではありませんでしたが、意外でした。

実は私は父の家庭など全く興味もありませんでしたが、「腹違いの兄」 ということに興味があり、テレビドラマのようだと思って、兄と父の息子と私の3人で大学近くの喫茶店で会ってみました。
その当時で父は既に60歳を越えていたので、父の息子も40才を過ぎた相当なオジサンでした。

“ミチト”さんは、私の入った大学の先輩 (同じ建築科) で、私の入試の際に大学の元の仲間が同大学の教授となっていて、その人から私の成績を聞いてくれたことや 、自分の仕事 (建築関係) のことなどを少し自慢げに話しました。
私の設計した図面を見せると、「随分線が綺麗だ」と褒めてくれて、建築の先輩として “兄貴風” もふかしていました。
齢の違いもあるせいか、“血のつながった兄弟” とはとても思えないのも不思議な感覚で、あまり信頼できる人ではないと思いました。

後で父から聞いた話ですが、この“腹違いの兄” が事業に幾度となく失敗し、大金の借金を抱え、その責任を父がかぶり、そのため父は土地や建物を全て失ったとのことです。
晩年の父は奥さんを先に亡くし、息子家族とも離れ、一人で安アパートで暮らしていました。

その後、この“ミチト”さんとは一度も会うこともありませんでしたが、晩年一人暮らしをしていた父が大分の母に「一緒に住みたい」と電話してきたことがあって、その件で数回だけ電話で連絡したことがあります。
母は一人になった父の面倒を見るつもりでしたが、その父も大分の母と一緒になることもなく、7年前に病院で亡くなりました。

母は田舎で小さいながらも文具店をしていて、私が小学生の時には既に父からも完全に自立していました。
父は事業に行き詰ってお金が無いときは、何度か母に無心したこともあったようです。(返してもらった事は一度もないようですが)

父と最後に会ったのは15、6年前で、まだ会ったことがなかった私の妻と子供に会いに柏まで来たことがありました。そんなことは今までにないことで、たぶん一人暮らしがよほど寂しかったのでしょう。
親子とは不思議なもので5年や10年会わなくても、何の違和感もなく普通に会話できるものです。
その時は生活にも困る状態のようだったので、少しまとまったお金を渡しましたが、その事がすごく嬉しそうで、大分の母に 「ノブユキから小遣い貰った」と自慢げに話してたようです。

知らずしらず父の影を追って建築を目指し、苦労して入った大学でしたが、何故か建築の世界というものに興味がなくなっていってしまったのは、この「腹違いの兄」と会った時期からだったかも知れません。

⇒ 写真は父と母、そして一番上の兄と一緒の記念写真。(昭和22年)
 この写真は田舎の仏壇に置いてあって、母が今でも供養しています。