《BGM演奏は「アルハンブラ宮殿の思い出」(私の演奏です)》 高校を出て住み込みのアルバイトを1年半ほどして、やっと大学の資金をため、2年目の9月頃安心院の実家に帰りました。 「さぁ、これからやっと浪人生活だ、大学受験がんばるぞ」と張り切って高校時代の教科書を広げて、唖然!ほとんど学習した記憶がないのでした。 この1年半の間は殆ど勉強らしいものはしていなかったので私の頭は“中学生” 並に落ちていました。受験まであと数ヶ月。 「こりゃ駄目だ」 と半ば(というより殆ど) 諦めながらも、1、2校の大学を受験しましたが、やはりあえなく失敗。 そして、すんなりと高校卒業後3年目の生活に突入したのです。 実家のあるこの「安心院」(アジム)という町は、周りが殆ど山に囲まれたド田舎で、別府や大分の町に出るには一日がかりの所です。 おまけに小学校の友人とは私が別の中学に行ってしまったので疎遠となり、中学・高校の友人も実家に戻ったので距離が遠くなり、生活環境も変わったせいか疎遠となってしまい、まったく一人ぼっちになってしまった感じです。 話す相手は母と文鳥の「シロ」と「クロ」、九官鳥の「カンクロウ」だけという侘しい生活でした。 大学受験も失敗して、「来年の受験まであと1年もある」 という気持ちに余裕(本当はある筈がないのに)ができたためか、「何かやってみたい」 と思い始めました、 高校生時代に友人から貰った「フォークギター」があったので一人でちょっと弾き始めました。 ダイヤグラムのコードを押さえてジャカジャカ伴奏しながら当時のフォークを歌ったものです。 得意になって母に歌って聞かせると 「ギターはいいけど、お前歌わんほうがえんじゃないか」 と、つれないコメント。 「俺は歌は駄目かも」 と内心では思っていましたが、フォークソングなど何も知らない母に言われると、やっぱり少しメゲテしまいました。 でも、ほめられてそのまま歌っていたら 「ストリートミュージシャン」 ならぬ 「ビレッジシンガー」 になって、村人の嘲笑の的になっていたかもしれなかったですね。 このフォークギターはコードだけだったので、「ドレミ‥‥」を知らなければと思ってところ、4月からNHKTVの「ギター教室」が始まるらしいことを知りました。 早速NHKに現金書留でお金を送って、NHKテキスト「ギター教室」を送ってもらい(これが田舎の不便さ)、そして金曜日の夕方が待ち遠しい生活が始まったのです。 初めの1ヶ月くらいは何と「フォークギター」と「クラシックギター」の違いがわからないで弾いていましたが、大分の町で当時12000円のクラシックギターを買ってきてからは、いよいよ本格的に練習し始めました。 ギターの曲はどれも素晴らしくて、特に他にやることもなかったので、毎日5、6時間は弾いていたと思います。 そして、ギターを練習しない時間はいつもイエペスやセゴビアのレコードを聞いたりしていました。そのギター演奏には新鮮な驚きと感動を覚えました。 まだギターを初めて間もなかったのですが、イエペスのレコードの中にあった映画「禁じられた遊び」が弾きたくて、町にその楽譜を買いに出掛けました。 当時はまだギターの曲集などの楽譜は殆どなく、書店やレコード店を探し回ったけど結局「禁じられた遊び」の楽譜はありませんでした。 レコード店を再度覗いて、その「禁じられた遊び」の入っているレコードを見ていると、なんと添付楽譜の中にこの楽譜があったのです。 この時は「これで弾ける」 と大喜びしました。 しかし、レコードは持っていたので買う必要もないし‥‥と考えていたら、「楽譜を写して帰ろう」 と思いつきました。 早速店員さんに紙と鉛筆を貸してもらって、その紙に五線を引いてメモ書きで素早く音符を書き写しました。 本当はこんなことできない筈なのに、よく「紙と鉛筆」を貸してくれたものだと今でも不思議です。 家に帰って今度は定規で五線譜を綺麗に書き、そのメモ書きした「禁じられた遊び」を丁寧に書き上げた時は大満足だったのを覚えています。 夢中で練習したので多分1、2日で暗譜したと思います。 夜になって母に 「この曲すごくいいから聴いてよ」 と弾いて聞かせたら、「この “禁じられた遊び”はお前がお腹にいる時に静岡の映画館で見たよ」 とのこと。母も好きな曲らしく、いつも弾いてあげました。 又、ある日ラジオを聴いていたらギターらしいとても綺麗な曲が流れてきました。 今でもやっているラジオ番組で永六輔の「誰かとどこかで」の中で弾かれている曲がそれです。 その番組の中で毎週金曜日(?)に「7円の詩」というコーナーがあって、読者がハガキ(当時7円)で詩を投稿して、それを読んでいるときのBGMがこの曲です。 何と言う曲だろうといつも思っていたら、番組の途中で「アルハンブラ宮殿の思い出」という曲名だとわかりました。(BGMで弾いている曲です) 次の日にまた早速バスを乗り継いで、大分の町にその楽譜を買いに出掛けました。 この曲はかなり有名な曲らしくピース楽譜がすぐ見つかったのは良かったのですが、楽譜を見てビックリ。 楽譜一杯に小さな音符が真っ黒にビッシリなのです。 トレモロ奏法というものを初めて知りました。この曲との出会いが自分の人生を決めたのかも知れません。 ギターを始めてまだ2ヶ月ほどで、まだ楽譜を読めるレベルと演奏テクニックは全くありませんでしたが、1小節を1日がかりで指で覚えて弾いた時は感激でした。 レコードで弾かれる「アルハンブラ‥‥」と自分の弾く楽譜が全く同じなのにも(当たり前ですが)感動して、ベースのラミドミドミを弾くだけでも夢心地でした。 ギターが弾けない時はいつも右指の親指・薬指・中指・人差し指を順番に動かしてトレモロ奏法の練習して、思いはいつもこの「アルハンブラ‥‥」にありました。(この指を動かすクセは今だに続いていますが) 1小節を覚えるとどうしても次の小節を弾きたくなり、以来毎日1〜数小節ずつを指で覚え、毎日が感激でした。 1ヶ月かけてやっと暗譜しました。(この曲は今でも好きで弾いています。) 毎日左の手首や親指の付け根がピクピクとケイレンしていたので相当無理に弾いていたと思います。 この「アルハンブラ‥‥」を作曲したF・タルレガという人は一体どんな人だろうと思い、いろんな書物を取り寄せて受験勉強以上に勉強しました。(現在「オークニュース」の作曲家紹介はその時の資料です) NHKTVの「ギター教室」も相変わらず熱心な生徒(?)で金曜日の本放送と日曜日の再放送は欠かさず見て、京本先生の話や演奏の注意事項、そして先生の演奏曲などはもらさずメモして練習しました。 ギターを弾く友人・知人がいるわけでなく、ましてギター教室などない田舎でしたので、テレビの「ギター教室」は最大の情報源でした。 又自分の弾くギターを母がよく聞いてくれたので練習の張りにもなっていたと思います。 受験生なのに勉強もしないでギターばかり弾いている私に 「勉強しろ」とか「将来どうするんだ」 など唯の一回も言わずに好きなように過ごさせてくれた母には今も感謝です。 寝食を忘れてギターばかり弾いていましたが、でもやはり悲しきかな受験生。 ボチボチ一人で勉強していましたが、集中してきたのが秋あたりからです。 理工学部の建築学科を希望していたので、受験科目は英語、数学、理科のたった三科目なので集中できればできそうな自信もありました。(前年も少しは勉強していたので) 予備校も行けなかったので、とにかく一人で全てやるしかなかったのです。 そして、なんとか愛知県の「名城大学理工学部建築学科」に合格できました。 でも、大学に受かったことよりも、これで安心してギターが練習できる喜びのほうが大きかった気がします。 この田舎で過ごした1年半は今までの人生の中でもとても貴重な時間だったと思います。 時間がゆっくりと流れていたような感じでした。 夢中でギターを弾いたり、のんびり川に魚釣りに行ったり、そして母と畑を作ったり、文鳥と遊んだり‥‥。 この時の我が家でとれたトウモロコシはものすごく美味しくて、朝・昼・晩問わずよく母と食べました。 今だに夏に帰ると 「今年のトウモロコシのできはどう?」 と尋ねます。 写真説明/上 家の近くから見た由布岳(湯布院)。富士山みたいに見えます。 2番目 近くの川で。これは20才の夏です。 3番目 近くの「仙の岩」というところで、奇岩の景勝地です。 4番目 家の裏の川 (ここでいつも魚釣りをしていました) *この時期は私の写真がありません。