高校は卒業したものの‥‥‥


《住み込み労働者》

大分県立鶴崎高等学校を主席で卒業‥‥。
とよくある出だしで書きたいところですが、実際は出席日数もギリギリで、しかも落ちこぼれかけていたので、かろうじて卒業しました。

友達の家に下宿して厄介になっていましたが、その友達も進学したのでその家を出ることになり、とりあえず寝る場所を確保せねばとアルバイトを探していたら、南大分で良い条件の所を友達が探してきました。

日当は当時2000円で社長の家に住み込みでも良く、住み込みだと食費で一日300円引かれるだけで、自分の部屋もあったので、“これはいい”と思い何も考えずにそれに決めました。

なんと高校卒業後の第一歩は今で言う “フリーター” 生活だったのです。
とはいえ大学進学は諦めたわけではなかったので、将来をそれほど悲観もしていなかったのですが・・・。

友達と3人でそのバイト先に早速出掛けましたが、私は住み込みでしたが他の友達は通いでした。
「田島骨粉工場」というところで、周辺の住民にはかなり嫌われたところです。
歩いてその工場に行くと数百メートルの手前からひどい悪臭が漂ってきて、その悪名高き工場に入るとビックリ。
幼稚園の園庭ほどあるところに牛や馬の骨の山山山。
近くで見ると牛や馬の頭蓋骨、足の骨、おそらく数百トンはあろうかという量でした。
雨が降る日には10キロ四方に腐った骨の悪臭がするということでした。

工場に入るなり、口の悪そうなオジさんが “若けぇ子がようバイトに来るけど、3日ももたねぇよ。アハハ” と笑っていたのを今でも良く覚えています。(結果的には1年半お世話になったけど・・・)
2人の友達は顔が青ざめ吐きそうになっていましたが、私は “なんか面白そう!” と新しい世界に興味深々でした。

その会社は、大分県はもとより北九州、宮崎、四国の屠殺場から牛・馬の骨を集めてきて、骨を砕いて骨粉にして植木の肥料や、骨の中の油を取り出して石鹸の原料を作る会社のようでした。

私の仕事は屠殺場に行って、解体されたばかりの牛・馬の骨(生の骨ってすごく綺麗なものです)をトラックに積んだり、工場ではもっぱらスコップで骨を運んだりする肉体労働でした。
牛・馬の生の骨はかなり大きなものでとても重たいものです。
一緒に始めた2人の友達は2日目でリタイヤ、汚く臭い仕事に相当にショックだったらしく、“もう肉は食べれん”と言い残して辞めていってしまいました。

2ヶ月もすると肉体労働にも慣れてきて、工場のトラックやフォークリフトの運転の練習をして普通車の免許を取りました。
乗用車に乗ったこともなく試験を受けたので5回落ちましたが、自動車学校に行く時間もお金もなかったのでこれには本当に助かりました。
いつも助手での仕事だったのが、1人でトラックに乗ってあちこちの屠殺場に骨を取りに行けるようになりました。

屠殺場では牛や馬、そして豚などの屠殺もよく見ました。
牛は綱でつながれたままの状態で頭に先のとがったハンマーで打ち込まれます。
眉間の真ん中にハンマーを打ち込みます。
1センチでもずれたら牛は倒れないで、少し暴れるが収まったところで再度打ち込みます。眉間の真ん中から脳にまで刺さった場合はその場で足から崩れ倒れます。
するとすぐナイフで首を切り、腕を入れて血の流れをよくします。まるで水道のように活き良いよく血が流れだします。そして身体が温かい状態で尻尾から皮をはぎます。皮は塩をまぶして保存。
そして首を落として、内臓を全て出して骨と肉に解体です。
一頭の牛は1時間もあれば処理され、あたりは頭蓋骨・肉・骨・内臓、そして大きな目玉が散乱します。内臓は殆どホルモンになりますが、長い腸はナイフで中身をだして洗います。

豚は可哀想で大きな檻に十数頭入れられて、ゲンノウで頭をメッタ打ちで半殺し状態にして、水槽に入れられて足から吊るされます。そして尻からお腹を切るとドサッと内臓が全て落ちて、後は電気ノコキ゜リでお尻から頭にかけて切り落として解体します。
手足はその場で切り落とされます。それが「トン足」でよく肉屋さんで見かけます。

これらの残虐極まるシーンはやはり衝撃的でした。
動物を殺す人も仕事なので仕方がありませんが、自分がその仕事でなかったことだけは救われる思いでした。

私の仕事で夏場は特に悲惨でした。
屠殺場の倉庫にある牛・馬の骨に付いた肉が腐り、アンモニアみたいな悪臭がして目が痛くなるほどです。頭蓋骨からは脳ミソが腐って緑色にドロドロになり、さらにウジ虫がウヨウヨしていました。
軍手をしていてもすぐグシャグシャになって、さすがに参りました。

その骨を2トン車に一杯積み込んで工場に帰る時は、荷台にカバーもしてなく、もちろんクーラーもないので上半身裸、そして頭はいつもタオルで鉢巻という姿でした。
骨を一杯にして国道10号線を走っていると、後ろから追い越して行く車が、必ず鼻を摘んでボクの顔を見て行ったものです。しかもアベックで・・・。
“文句あっか” といつもトラック野朗の気分です。

たまにトラックの荷台から牛や馬の骨を落っことしてしまって、取りに戻ったりと大変でした。

仕事が終わると、その日に解体された骨の肉を、ナイフで削ってボイラーで焼きながら、職場の仲間と酒を飲むのも楽しいものでした。

“工藤。ここの仕事を3ヶ月やれば、どんな仕事もできるぞ” と職場のおじさんによく言われました。
臭く、汚く、きつい肉体労働、これ以上に大変な仕事もなかったかもしれないです。
ここで働く人達は意外と良い人が多く、よく仕事が終わって家でご馳走になったりして随分と可愛がられました。

この仕事を通じて、どんな仕事をしても生きていける自信がついたようlな気がします。

《我が“青春の門”》
 仕事にも慣れてきて、気持ちにも多少の余裕ができ、ちょくちょく母がいる実家にも帰るようになりました。
そんな時、同じ村で同級生の “マサミ”に偶然出会いました。小学校の卒業以来だから7年ぶりです。

中学を卒業して北九州に働きに行ったと聞いていたので、“マサミお前何しよるんか?”と聞くと、マサミは “最近仕事辞めて家に帰っちょるんよ。仕事探しちょるんやけど、なんかない?” と尋ねてきました。
“今、大分で住み込みで働いちょるから、お前も来るか” と聞くと、“nobuyukiさんと一緒なら行きたい” とのことだったので、早速連れて行きました。

マサミにとって義母・義父のいる実家はとても苦痛だったようで、すぐにでも家を出たい心境だったようです。
「住み込みのお手伝いさんがほしい」と社長の奥さんが以前にも言っていたので丁度好都合でした。

“マサミ”は小学4年生くらいの時に、村の家に養女としてもらわれてきた子で、親に見捨てられ、施設にいたようです。
この頃の養女というのは、子供に恵まれない夫婦が子供がほしいから養女にするというものではなく、養って学校に行かせるかわりに田畑の手伝いをさせるというもので、殆ど働かせるためのようなものでした。

マサミの義父・義母さんも70歳を越えた老夫婦なので、畑仕事の手伝いばかりさせられていたようです。
朝早くから畑仕事をさせられ、学校から帰ってもろくに勉強もさせないで、暗くなるまで働かされる生活だったので、いつも手はアカギレがひどく、継ぎはぎだらけの洋服を着て、顔はいつも赤く荒れているような子でした。

放課後に友達と縄跳びして遊んでいようものなら、義父が来て  “こんバカなんしよるか。畑さ行って仕事しろ” と怒鳴りつけてぶったたいているのです。

そんなマサミを、私は心の中では可哀想に思いながら、実はかなりイジメました。
家で畑仕事をしているより、学校が楽しそうなマサミに、“このボスザル” とか “もらい子” とか言葉による暴力で泣かし、マサミのお義母さんからも“あんたんとこの息子にいじめられて困る” とよく言われました。それほどよく泣かせたものです。

マサミをイジメた理由は本能的な所にあったと思います。
マサミの境遇は私の母と同じだったのです。
私の母は幼い時に父を亡くし、兄弟の多い農家では生活が苦しい為、遠い親戚に養女として出されたのでした。
働き手のいない養女先では、朝早くから家事労働で働かされ、粗末な食事しか与えられず、高等小学校を卒業させるとすぐに他に働きに出し、そしてその収入を当てにしていました。
当時の養女というものはそれが普通らしく、母は義父・義母が亡くなるまで生活費を援助していたとのことです。
そしてその養女先の姓が現在の私の姓です。

マサミとそんな母の境遇が似ていて、母への思いとの裏返しだったものかも知れません。
自分の中で 「何かを認めたくない」気持ちが強く、イジメた理由は今でもよくわからないのですが、子供の心というものは矛盾に満ちているもので、時には残酷なこともあるようです。

マサミは私がイジメると、泣きながら、それでもいつも付いて来ていました。
でも他の友達がマサミをいじめると、それは許せなくていつも陰ながらかばってあげてこともありました。
性格はとても優しい女の子で、私からイジメられても、いつも私の味方をしてくれました。
私が出来の悪い兄貴のようなもので、それでもいつも私を慕ってきている妹のような感じだったと思います。

そんなマサミをお手伝いさんとして会社に連れていくと、実によく働きました。
明るく元気一杯で食事の支度、掃除、洗濯、さらには人手が足りない時には工場でも働き、工場の人からも社長の奥さんからも “本当にいい人を紹介してもらった” と大喜びされました。
骨の肉片が付いて汚い私の作業服を洗ったり、工場では骨粉の袋詰めの作業をしたり‥‥と普通の女の子では絶対できないような仕事も、嫌がらずにこなしていました。
少女時代の苦労を考えればずっと楽だったのかもしれません。

小学生時代は“出来の悪い兄貴” 私だったけど、一緒に働くようになってからは “いい兄貴” になって、本当に毎日面倒をみてあげて楽しい毎日でした。
工場のおばさん達からも“あんた達本当の兄妹 みたいやね” と言われる程仲が良かったものです。

ある日曜日に “マサミどっかドライブでも連れて行ってあげるか” と声かけると “うれしい”と大喜びしたので、出掛けることになりました。
考えてみたら、大分に連れて来て何処も遊びに行かなかったので、楽しませてあげたかったのです。
工場の人から車を借りて別府に行き、別府湾を一望できる山まで行きました。
遠くは四国や本州が良く見え、海がとても綺麗だったのでマサミも大喜びでした。

ドライブすることが初めてらしく、とても喜んでいるマサミを見たら、妙に女性の可愛らしさを感じてしまいました。
一緒に働いている時には “女性” を全く感じたこともなかったのに、この時はちょっとマサミが眩しかったです。

ドライブの帰りに “今夜、社長や奥さん達が眠ったら俺の部屋においで。” と自然に言葉が出ました。
マサミの部屋は一階の奥で私は二階だったので、階段を上がることに気付かれたくなかったのです。

夜の11時過ぎを回った頃、静かに襖を開けてマサミがきました。
私もマサミもドキドキしてました。
普段は “おい! マサミ” などと気楽に言えるのに、言葉が出なくなってしまいました。
何も言わず、いきなりマサミを強引に押し倒しました。
恋愛の術を知らない私にはこれしかなかったのです。
するとマサミが嫌がったので、“あっ、まずい事をした” と恥ずかしく思い、“ごめん、悪かった。もうしない” と謝まりました。
すると、“どうして?” とマサミ、覚悟を決めて来ていたようでした。
そして、一緒の時を過ごし・・・、これが誰もが一度は通る私の「青春の門」でした。
私もマサミも初めての経験だったのです。

数日たってマサミから“相談したいことがある。”と言ってきたので、聞くと、北九州で仕事をしていた時に、結婚してほしいといわれた人がいるとのことです。
相手の親からは“絶対に許さない”と言われたらしく、それはマサミの生い立ちにも関係しているようでした。
“そんな相手がいるのに何故俺と、しかも初めて‥‥” と怒ったら、 小さな声で “いいの”と一言。

“相手の親が反対しているんだったら何処かで二人で住め” とすすめました。
マサミはよく働いたので、社長や奥さんからも気に入られて会社を辞めづらかったようです。
そして社長の家族が旅行に出掛けたスキに彼を迎えに来させ、荷物を全部まとめて一緒に夜逃げさせました。
“後のことは任せろ” と二人を見送りました。マサミと出会って3ヶ月程度の間の出来事でした。
この時ほどマサミに幸せになって欲しいと思ったことはなかったです。
この日以来会っていないので今はどうしているかわかりません。

義父母もすでに亡くなり、養女として育った家もなくなってしまったので、もう田舎(安心院)にも戻ってこないでしょう。風の便りに探してみましたが、やはり所在が不明でした。
とても優しい女性だったので、きっとどこかで絶対に良い母親になって温かい家庭を持ち、私以上に幸せな人生を送っているはずです。
もしそうでなかったらあまりにも悲しすぎます。

《やっと浪人生》

「夜は大学受験の勉強をしよう。」
と思ったのはこのバイトを始めた当初だけで、実は全く何もできませんでした。
ほとんど教科書や参考書など手付かずの状態で、一日肉体労働をして、たまにお酒など飲んでいて、やはりできるものではなかったです。

“お金貯めて、勉強して大学に行くんだ” とマサミに話して、すごく尊敬されてしまったことがあったけど、実は勉強もしていない自分は情けない状態でした。
でもこの1年半の間に、とにかく大学に入る入学金と半年の生活費50万円はなんとか貯めることができたのです。

高校を卒業して1年半・・・。
友達は皆大学2年生になっていて、たまに会うと大学生活や東京や大阪の町の話になり、話にもついて行けず段々疎遠になっていきました。(上の写真を最後に会わなくなってしまった)
気がついたらいつの間にかひとり取り残されていたのです。

夏を過ぎて、大学受験を目指すため、住み込みの仕事を辞め、母のいる安心院(アジム)の実家に帰り、中学校を卒業して以来の二人暮らしが始まりました。

さあ大学受験まであと半年。
「受験勉強だ!」と意を決して懐かしの教科書を開けて愕然としました。
高校時代は勉強した方ではなかったにしても、全く解らなかったわけではなかったのに、英語も数学も理科も殆ど理解不能、すっかり忘れているのです。

予備校などはとうてい望めない状況の中で、一人で受験勉強をしなければならないのでした。
フリーター生活を終え、やっと浪人生になれたのに、先の受験を考えると絶望的でした。

これが20歳の秋のことです。