高校生時代


高校受験を目前にした中学3年の冬、母がお金を貸していた人の会社(靴の仕入れ問屋)が大きな負債を抱えて倒産。母が貸した額はなんと当時のお金で300万円。
私を大学に行かせるために一生懸命貯めた資金でもあったようです。
「お前を大学に行かせられなくなった」 と泣く母。
初めて泣く母を見て、「そんなんいいよ」 と慰めながらも、とても悲しかったのを覚えています。

そして、高校に入学してやむなく母も靴屋を閉め、ひとりで大分から安心院 (アジム) の家に戻り以前の文具店を始めました。私は大分に中学からの友達も多かったので近くの普通高校に進学し、高校1年生から卒業するまでずっとひとりで下宿と流浪生活をしました。
この時点で安心院の母、名古屋の次男、東京の長男、数年に一度会う父、と家族全てがバラバラの生活でした。

初めての下宿はなんと倒産した人の家。
私を下宿させることで母への月々の返済に当てるというものでした。
夫婦と小学生の子供2人の家族で、1階は居間一間で2階が2部屋の狭いアパートで私は2階の一室を使用。
倒産した家庭だったので雰囲気も暗く、食事もほとんど毎日が“魚とモヤシ”でかなり粗末なものでした。

でも、数ヶ月でその人が他の仕事をするということで引っ越してしまったので、私も紹介された他の下宿に引越ししました。

その下宿はおじいさんとおばあさんの夫婦だけで家もかなり古いもの。
私の部屋は2階の屋根裏部屋みたいなところで、2階への階段を上がるとすぐ物置みたいな倉庫があって、その奥が私の部屋でした。

なんと床が傾いているのにはビックリ、寝る時に枕がいらないほどでした。
窓はあるが観音開きでいかにも古いって感じ。

風呂はなんと五右衛門で、入ってこれまたビックリ。
多分1ヶ月は水を取り替えていないのか、風呂に入ると敷板の下から苔がブワッと浮いてくるのです。
洗濯機もなかったので冷たい水での洗濯は手が凍るようでした。

ケチケチじいさんは夜に勉強していると、下で二階の電源を切ってしまうのにはまいりました。腹が立って電源を上げてやったら、翌日学校から帰ると、電源に木のボックスを付けて、こちらでは電源を上げられないようにされていました。頭に来たので、五百円札をグチャグチャに丸めてじいさんに投げ捨ててやりました。

このじいさんは私が学校に行っている間にどうも私の部屋に入っている形跡があったので、襖を開けたところにいっぱい画鋲を置いてやりました。(絶対に踏んだと思って密かに喜んだものです)

このじいさん夜中にいつもゴトゴト何か仕事をしているで、こっそり覗くと何と「棺おけ」を作っていました。
昔船大工だったらしいので、納得。その時で70歳を過ぎていたので、もうとっくに自分の作った棺おけに入ったことだろう。

この下宿に入ってから私はその倒産した人から、母に代わって毎月「借金取り」 をすることになり、そのお金で家賃を払うという高校生活が始まりました。でも、その倒産した人からの支払いは滞ることも多かったので、月々の家賃が払えず、とうとうこの下宿から追い出されてしまいました。

今度の下宿は不動産屋を回って自分で探しました。
四畳半と押入れだけの部屋で賄い付きでしたが、弁当がひどかった。朝弁当を受け取る時はふっくら一杯ご飯が詰まっているようだけど、学校で開けるとご飯が片側によって半分になってるのです。
母親が作ってくれた弁当は絶対そんな事はなかったし、美味しかった。

やはり、ここでも家賃が滞り、追い出される羽目に。
でも、追い出される時は悔しかったので、最後の日に友達12人呼んで酒飲んでドンチャン騒ぎして暴れてしまい、建物の周りのあちこちにゲロを吐いたり、襖を蹴破ったり、壁に穴を開けたりして、気持ちよく追い出されました。(ゴメンナサイ)

その後は親戚のおじさんのアパートに居候したが上手くいかず、とうとう行く場が無く安心院の実家からバイクで通うようになりました。
実家から高校まで60キロ近くあったのでかなりきつかったです。その時は冬だったので、山越えしての通学は寒くてかなりこたえました。そんな時ある女の子から「バイクは寒いので可哀想」とマフラーをプレゼントされました。
どうも私のことを以前から好きだったらしい。

その頃はほとんど女の子には全く興味なかったので、付き合う気もなかったけど、どうしても家に遊びに来てと言うので一度だけ行ってケーキをご馳走になりました。
男友達が一杯いたので、やはり女の子には全く興味はなく、高校時代のラブストーリーはたったこれだけ。

バイクで実家まで帰るのが大変だったので、よく友達の家を泊まり歩いたものでした。
そのうちバイクも壊れ、最後には友人の家で高校卒業まで厄介になりました。

この友達はお母さんと2人の母子家庭で、お母さんはバーのマダム。
階段を上がってすぐお母さんのベッドルームがあって、隣が6畳ほどの居間。そしてその奥の3畳が友達の部屋でここで生活。
夕方学校から帰ると、パーマに行ったお母さんが出勤したので、夜は友達と2人で将来のことや学校、大学のことなどを話ふけってました。

結局、高校時代だけでなんと6回も居所を替えることになりました。
でも、どこにいてもどんな状況でも適応力があるのか、それほど苦にはならないで、むしろそんな生活を楽しんでいたようだった感じがします。(毎月の「借金取り」をしっかり続けてたのはやはり大変だったけど)

そんな流浪生活の中でも洗濯・掃除はしなければならないし、勉強も遊びも全てが自分で管理しなければならないので、楽しいやら、辛いやら、寂しいやら、不安やら‥‥。

でもやっぱり母と別れた生活が一番寂しかったので、土曜日になると、半日かけてバスを乗り継いで、毎週田舎の安心院にお土産(洗濯物)を持って帰ってました。

家に帰ると母はお風呂を沸かしていてくれて、夕食には大好きな草履みたいなトンカツを出してくれて、それを食べるのが何よりも楽しみでした。
それと名古屋に行っている次男や東京の兄が夏のお盆と年末にはいつも帰ってきて家族みんなで一緒にいられたのが待ち遠しいことでした。


写真左は高校1年生の頃。
水泳部だったので顔が真っ黒に日焼けしてます。(今もいつも日焼けしてるけど・・・)
ちなみに水泳の成績はメドレーリレーで大分県代表となり、九州大会までいったがあっけなく予選落ち。

右上は高校3年生の夏休み。
大分から門司・下関、北上して日本海側の青海島そして、南下して広島・岡山と全てヒッチハイクでの旅でした。止めて乗り継いだトラックや乗用車は約20台ぐらい。

 青海島から南下する時は山道なので誰も止まってくれず、10数キロこのバッグを持って山中を歩き回ったので、疲れ果ててしまい、最後には高校生のバイクをやっと止めて後ろに乗せてもらいました。この時は本当に嬉しかった。

右下の写真は高校3年生の終わり頃。
前列右は高校生最後に厄介になった友達、左の子からは卒業時にフォークギターをもらいました。(ギターとの運命的な出会いだったかも知れない)

高校3年生の夏休みが過ぎると、周りの友達は一斉に大学受験の体制へと入っていきました。
しかし私は自分の進むべき道が分からなかったので、2学期からは週に1、2回ぐらいしか高校には行きませんでした。
進学組の友達からは「工藤は学校さぼって勉強している」と言われ、就職組からは「工藤は下宿で遊んでる」 とも言われてました。

実際は下宿で全く勉強しないでタバコを吸ってボンヤリしてたり、たまに酒を飲んでたり、夜中はマフラーを外したバイクを乗ってまるで暴走族まがいで遊んでいました。自分の将来がまったく掴めず不安な毎日でした。
大学進学はもう経済的に無理だし、就職をすると何か人生が決まってるようでいやだし‥‥。

こんな生活をしていて高校を無事卒業できるのだろうか? 卒業しても何をすればいいんだろう?
厄介になっている友達は大学が決まったので、その家を出ていかなければならないし、安心院の家には帰れないし‥‥。

これが高校生3年生の冬の私でした。