《“みき”とのこと》

「新人ギター演奏会」やクラブの「定期演奏会」などの定例行事も終わり、いよいよ4年生後期を迎えていました。
相変わらず就職活動は資料集めすらしなくて、無気力状態は以前と変わらない状態でした。

“みき”の実家にも毎週のように行っていました。
実家のすぐそばには伊吹山があったので、そこで一緒にスキーに行ったり、屋根の雪下しをしたり、正月にはお父さんと餅つきをしたりして、すっかり家族の中にも馴染んでいました。

お父さんからは、田んぼの図面を見せてくれたりして、「養子」になってからのいろんな話もそれとなく出ていました。
結婚式は大々的に行って村の人全員を貸切バスで招待するとか、100万もする車を買ってくれるとか、二階に新居を増築するとか、ご両親も“みき”も私に不自由なく迎えたい気持ちが伝わってきて、とても有難い気持ちも持っていました。

“みき”とはよく喫茶店に行っては将来の話をよくしていました。
将来は、「2人で喫茶店をして、私がそこでギターを弾きたい」とか「実家で“みき”が学習塾をして、私がギター教室をして」などと、ほとんど現実感に乏しい話ばかりでした。

ただ、不自由なく結婚して「養子」になるのには、なんでもいいから「定職」を探さなければならなかったのです。それも、私が事故や怪我がないように、建築以外の仕事でです。
“みき”とは結婚したいという反面、「なんでもいいから」という安易な仕事探にしは、耐え難い思いもあったのです。
自分の生涯を通じてできるような「仕事」、将来の「希望」や「夢」が何も持てなかったです。
毎日が将来の不安を感じていました。

《やっと決まった就職先》

新年を迎えて、“みき”がギター雑誌の中で「職員募集」の広告を見つけてきたのです。
それは「N堀ギター音楽院」という所で、北海道から東京、静岡、名古屋、福岡などに音楽センター教室を持ち、全国展開している日本でも最大規模のギター音楽院でした。

名古屋本院もあったので、将来そこでギター教師ができればと思い早速受験しました。
受験はギター実技と面接だけのもので、比較的簡単に決まってしまいました。
こちらの希望は名古屋本院でしたが、東京の本院で1年間の研修を受けてからとのことでしたので、4月から東京に行くことにしました。
これで無事就職先も決まり、1年間の研修を終えて翌年の3月には結婚できる見通しがついたのです。
自分がギターの先生になることは、現実として無理だと思っていましたので、自分としても嬉しい仕事になりそうでした。

《“卒業試験”と“バイト”》

就職先は何とか決まりましたが、卒業に必要な単位と1年6ヶ月も溜まった下宿代が大問題でした。
単位は1つでも落としたら卒業できないという厳しい状況でしたが、追試を受けながらもかろうじてクリアしました。
この時の集中力は我ながら驚きです。

そして、1年6ヶ月も溜まった下宿代です。これは、丁度“ミキ”と付き合い始めた時からのようです。
下宿のオバさんは下宿代が溜まっても全然催促をしないので、居心地よく大きく溜まってしまったものです。
でも、その頃は実に割りの良いバイトをやっていました。
それは名古屋の中心部に工場を持つ大きな老舗の饅頭屋さんです。

私の仕事は、工場で作った饅頭やウイロウを、スーパーやデパートの開店前に届けるものでした。
午前中に数件のデパートを回るだけでしたので、お昼には工場に戻って昼食、午後は配送仲間で喫茶店で時間を潰したり、工場のオバさんと雑談して、夕食後に閉店したお店から売り残りの饅頭を引き上げるといったものです。
朝9時から夜9時までで時給が500円、昼食と夕食付きだったので、これには助かりました。

私は“くどチャン”の愛称で、配送仲間やお店の店員さんからも気に入られていたので、「都合のいい日はいつでもバイトにおいで」と言われていました。
2日バイトに出れば1ヶ月の家賃が稼げるので、卒業式にも出ないで1ヶ月ちょっとのバイトで下宿代全額を返しました。大家さんからは「卒業してからゆっくり払っている人もいるよ」と声をかけられたこともありましたが、これだけは避けたかったので良かったです。

《いよいよ東京行きです》

大学卒業間際は実に慌しく、いろんなことが重なりましたが、なんとかなるものでした。
東京での研修期間は社員寮があるとのことでしたので、バッグ一つとギターだけ持っていくことにしました。
私の下宿にあった荷物、と言ってもテレビ、ステレオ、LPレコード、布団、衣類、本や雑誌などは全て“みき”の家で預かってくれました。

1年間の研修を終えて、翌年の春には結婚して “みき”の家に戻ってくる予定だったからです。
就職も決まり、大学も無事何とか卒業出来、下宿代も綺麗に全て支払い、とても晴れやかな気分でした。

そして、大分の母にも“みき”を連れて紹介して、いよいよ東京行きです。(写真左はその頃の母と兄)