《“みき”の実家に》

4年生になって、2人で将来の結婚を誓い合ってからしばらくすると、“みき”が「私の実家に遊びに来ない?」と言ってきました。
「結婚の挨拶? ちゃんとした洋服も持っていないし、将来の仕事も決まってないし‥」と尻込みすると、「そんなんじゃなくて、普段のあなたを両親に見せたいだけ」とのことだった。
「じゃいいよ」と二人で滋賀の実家に行きました。

“みき”の家に行くと、お母さんが「こんな遠い所、ようおいで下さいました」と笑顔で迎えてくれました。
玄関は土間と上がり場がある昔ながらの作りの家です。
玄関を上がってすぐ右が応接間を兼ねたピアノ練習室、八畳ほどある和室が「田の字」に4室、まっすぐ行くと土間のある台所とお風呂、左の廊下を真っ直ぐ行くと、2部屋あってその一番奥が“みき”の部屋でした。
随分大きな家で、昔お父さんが中心になって建てたようです。

そして、「田の字」の奥の和室に通されると驚きました。
お膳いっぱいにお母さんの手料理が並べられていたのです。
しかも、上座に座らされたものだから一気に緊張です。私といえば下はジーンズで上は長袖のシャツを腕まくりした程度で、ご両親との初対面にしてはかなり場違いな服装でした。
そんな格好で、しかもまともな挨拶もできない私を、上手に“みき”が取り持ってくれていたと思います。ご両親もとても気さくでにこやかでした。

それからというものは“みき”が実家に帰る時はほとんど一緒に行って泊めてもらっていました。
日曜日には2人で琵琶湖に泳ぎに行ったり、伊吹山に登ったり、スキーに行ったり‥‥。
こっそり2人で二泊三日の小旅行に行ったりと楽しい日々ばかり続いていました。
いつも2人で仲が良かったので、お母さんから「あんた達兄妹みたいやね」と言われてました。

“みき”は1人っ子でした。
その為、結婚ができるためには、私が「養子」になる必要がありました。
当時は「養子」にこだわりは全くなかったので、私もそのつもりでした。
“みき”の家に二階部分を増築して、それを新居にして‥‥と話も具体的に進んでいました。

ただ、私は4年生になっても全然就職活動をする気がなかったのです。
ご両親が「建築の仕事をして、もし事故でもあったら、“みき”が一人残されて可愛そう‥‥」という話を聞かされていたし、私も「建築」というものの興味も失っていました。
大学を卒業して結婚するためには、建築以外でちゃんとした仕事につかなければならなかったのです。

自分の将来や希望が全く見えていない状態だったので、人生そのものが不安でいっぱいでした。

《ギターの練習再開と「新人演奏会」》

実は、自分のギターを壊したのはもう一つ理由がありました。
毎日毎日数時間はギターの練習をしていましたが、全然上達していない自分に嫌気をさしていた時期でもあったのです。
練習しても練習しても思うように弾けないことが辛くて、「止めたい」気持ちでした。
ギターがなくなれば練習できないし、止めるだろうと安易な気持ちだったのです。

ところが全然逆でした。
ギターを壊した翌日には、ガムテープで壊れた板を張り合わせて何とか弾ける状態にしました。
でも、表面板も裏板も横板の一部は張り合わせも無理でしたが、新しい弦を付け直してみると何とか音は出ました。でも全くひどい音です。以前の綺麗な音の面影は全くありませんでした。
ネックも曲がった状態のままだったので、ひどく弦高も高くて弾きにくかったです。

それでも、ガムテープで張り合わせたギターが愛しくて仕方がなかったです。
そんなギターを挫折しかけた時に、中部地区のギター界で最も注目されていた「新人ギター演奏会」(中部日本ギター協会主催)に出たいという“野望”をぼんやり持ち始めたのです。
この「演奏会」は中部七県(愛知、岐阜、三重、奈良、静岡、和歌山、滋賀)からオーディションで選出されたアマチュアギタリスト数名によるジョイントコンサートで、その演奏レベルは高く、「プロへの登竜門」的なものでした。

毎年11月頃に開催されていて、名古屋の市民会館中ホールを1000人の観客で埋め尽くすほどの盛況ぶりでした。私もこの「演奏会」には一年生の時から毎年聞きに行っていたので、ギター愛好家にとっては夢のような舞台なのです。

壊れたギターで練習していた私を見かねて友人が“使っていないから”と言って一本のギターをとても安く譲ってくれました。それが現在レッスンでも使っている「山口10号」です。
横板と裏板は楓で表板は松でできていて、弾きやすく音質も柔らかくていいギターでした。
ただ音のボリュームに欠けていたので、マイクを使わない舞台では少し不利ではありました。

この「演奏会」のオーディションは9月の中頃で、演奏形態は独奏又は二重奏、演奏曲目は自由でしたが15分以内の古典曲でした。
どちらかというと独奏より二重奏の方が好きな私は、同じクラブで同学年の増田を誘いました。

増田はとても技術的にも音楽的にも優れていて、それに同じギター教室でも習っていたのです。
二重奏を組むんだったらこの男しかいないと思っていました。
増田に「“新人演奏会”にお前と二重奏で出ようと思うんだが」と言うと、名古屋人らしく「一発かましたろう」と即乗り気で意気盛んでした。
選んだ曲目はF.ソルのop.34「アンクラージュマン」(励まし)という曲です。この曲は序奏、主題、三つの変奏、そしてワルツで構成されている曲で、ギターのオリジナルとしてはとても長い曲でした。でも、一部リピートを省略すればギリギリ演奏規定時間の15分に収まったのです。

6月位から練習を始めたので、オーディションまであとわずか3ヶ月しかなかったのでした。
そして本格的に練習を始めました。
練習場所は私の下宿で、オーディション直前は毎日数時間は練習したと思います。
曲の演奏解釈はほとんど私がリードしましたが、二重奏というのはお互いに尊重し合えなければ良い演奏はできないものです。
増田はギターの音色、音量、テクニック、そして演奏表現も申し分なく素晴らしいパートナーでした。
練習が終わるといつも“みき”が私の部屋に来て差し入れしてくれたり、三人でも良く食事に行ったりしていました。

そして、オーディションの日です。
朝起きたら、なんと私の左手が痛くて動かない状態でした。これには絶望的でした。
どうやら短期間でしかも長時間弾きつづけていたせいか、左手が腱鞘炎になっていたのです。
手首を曲げると激痛が走り、指も痛くて開けないのです。
それでもゆっくりと練習していく内に、左手が温まっていくせいか徐々に痛さも和らいでいくようでした。
まるで「青春根性ドラマ」みたいでしたが、数名の審査員を前に左手の痛さと緊張で震える右手の中で夢中に弾き切りました。
この時は生涯で最悪のコンディションだったかもしれないです。

そして暫くして、嬉しい「合格」の通知が届きました。
これにはクラブの仲間も、増田も、“みき”も大喜びで、私の部屋に集まってくれて皆でバカ騒ぎの祝杯でした。(写真)

そんなオーディションを経て、11月6日は夢の舞台だった「第10回新人ギター演奏会」の日でした。
朝、ミキに車で乗せて行って貰いましたが、緊張感はほとんど無く、楽しい一日が始まるようなワクワク気分でした。
楽屋で練習したり、リハーサルを済ませていよいよ本番の演奏です。
前の奏者が弾いている時はちょっと緊張しましたが、二人で舞台に出て驚きました。
すごく明るく広い舞台にイスが二つだけ、そして客席を見ると圧倒的な数のお客に押しつぶされそうでした。
当日の演奏者は独奏6人、二重奏2組でしたが、とても名誉なことに私達はラストのエンディング演奏でした。
何とか左手も回復して、オーディションほどの緊張感もなく楽しく演奏できました。
1000人のお客さんの前で、マイクもなしに静まり返った舞台は夢の中のようでした。
もしこのオーディションに合格していなかったら、多分ギターは他の皆と同じように止めていたかもしれなかったと思います。
そして私にとって、その後の人生で最も重要な転機になったのです。


「新人演奏会」に向けて必死に練習してきましたが、終わると厳しい“現実”が待っていました。
4年生の11月といえば誰もが就職が決まっている頃なのです。
パートナーの増田は家業を継ぐらしいので余裕でしたが、私は就職活動すら全くしていなかったのです。
悪いことに卒業できるための単位がギリギリ、さらに悪いことに下宿代が1年数ヶ月も溜まっていたのです。これは相当にマズイ状況でした。(続く)