春よ来い

今年(平成17年)の1月から3月にかけて、我が家にもいろいろな事がありました。
随分落ち込んだり、心配したり……。
そして今、それなりに落ち着いて4月の春を迎えます。(3/30)

《マサのお祖母ちゃん》

1月下旬の日曜日に、昨年結婚した娘夫婦と、マサ(娘の夫)のご両親と私の家族で、今年初めての食事をしようということになっていたが、そんな状況ではなくなってしまった。
マサのお祖母ちゃん(マサのお父さんのお母さん)が今年になって体調が急変し、入院しているとのこと。
実家は鹿児島で、お父さんは1月になってから毎週週末は帰省し、お母さんに会いに行かれているらしい。

お父さんは若い時に鹿児島から上京し、相当な苦労をしながら事業を展開し、結婚・子育て、そして子供の独立‥‥。
そんなお父さんと、私とはその軌跡がよく似ている。
遠い鹿児島の田舎に残してきた母への思いや、何もしてあげられない寂しさはきっと私と同じだと思った。

1月29日の土曜日に娘のサチが私の家に泊まりにきた。
いよいよお祖母ちゃんが危篤状態となり、マサやご両親、妹のマキちゃんが鹿児島に帰って、サチは留守番役で残され、一日泊まりに来たのだった。
サチの話からいろんな状況が伺えた。
お祖母ちゃんが入院している所は普通の病院ではなく、延命治療を施さずに安らかに過ごせるようなホスピスで、家族がいつでも自由に泊まったりしてお祖母ちゃんの最後を一緒に過ごすような所。そして、親族の方々が皆さん集まっていたらしい。

お祖母ちゃんのベッドをマサのお父さんや次男、三男そして孫たちが囲んで、意識が遠のいていくお祖母ちゃんに声を掛けたり、体をさすったりして励まし続けているらしい。
お祖母ちゃんに一番近い人が席をはずすと、皆がその枕元に争うように寄ってくるらしい。ほんの少しでも、できるだけ近くに一緒にいたいという気持ちが痛いほど伝わってきた。


鹿児島のご実家で結婚の報告をして、熊本で私たち夫婦と合流。阿蘇で遊んで、今度は私の実家へ。

夜の11時半頃、マサからサチのケータイに電話がきた。亡くなられたとのことだった。

マサもお祖母ちゃんの身体をずっとさすっていて、温かかった身体がだんだん少しずつ冷たくなっていったのが辛かったようで、電話の向こうで泣いていたそうだ。

昨年の9月には、結婚した相手を紹介しに、鹿児島と大分のそれぞれの実家にも行ってくれた。
鹿児島の実家で親族が結婚を祝ってくれて、今度は私が大分から熊本まで出迎えて私の実家でお祝いし、一緒に東京に戻るという楽しい旅行だった。

鹿児島ではお祖母ちゃんはとても喜んでくれて、サチと一緒に撮った写真がとても自然で素晴らしい笑顔だったと聞いた。
齢を重ねるとだんだん笑顔が少なくなる中、良い贈り物になったに違いない。そして、この写真がお葬式に祭壇を飾ったとのこと。
親族の皆さんも久しく見なかった、お祖母ちゃんの笑顔だったらしい。

マサとサチが結婚したことで、最後のお祖母ちゃん孝行ができたのかもしれないと思った。

マサのお父さんの悲痛な気持ちを思いながら、ずっと大分にいる私の母のことが重なっていた。
マサのお祖母ちゃんと私の母は共に83才。
いつかは来る “母との別れ” 。もう残された時間はそう多くはないかも知れないと思い、先日1週間母に会いに行ってきた。

《妻が乳がんに!?》

サチが来た数日前に妻から“胸にシコリ” ができていると聞かされた。
触ってみたら確かに右乳房の上部に豆粒ほどの“シコリ” らしいものがあったが、何か脂肪の固まりのようなものでもあった。「それでなくても小ちゃなおっぱいなのに、半分も切り取られたら無くなっちゃう」とまだその時は冗談も言えた。

娘にも触らせたが「お母さんガンじゃないよ。きっと脂肪か何かじゃん」 と勇気づけようとしていた。
普段では気にも留めていなかったものなのに、どうやらテレビの乳がんをテーマにしたドラマを見て心配になったらしい。
2月になったばかりの火曜日に柏駅東口にある「N乳腺クリニック」という所に検査に行くことになった。

この時期は鹿児島のお祖母ちゃんが亡くなったこと、妻の乳がん疑惑、そしてさらに大学三年生の息子が単位不足で留年するかもしれないなど、悲しいことや心配ごとがたくさん持ち上がっていた。

そして翌々日の火曜日を迎えた。今日は妻の“乳がん検診”の日だ。
インターネットで調べたらしく、乳がん検診は、触診、レントゲン、そして超音波検査をして、ほぼこれでその日のうちに分かるとのこと。特にレントゲンは乳房を上下左右に押しつぶして撮影するもので、これは少し痛そうだ。

私は火曜日の夕方は空手を指導する日で、少年部を2クラス、そしてその後に一般部の指導となっている。
指導が終わってからだと夜9時過ぎになってしまうので、初めの少年部クラスが終わって妻に電話をかけた。
「ガンじゃなかったよ」 と期待していたが、妻の返事は「やっぱり乳ガンらしい」 と最悪の結果報告。
「えぇっまさか!ガンなんて・・・」 と愕然としてしまった。
次のクラスの子供たちがもう来ていて、横でわいわい騒いでいた。
子供たちに気づかれないように、いつもどおり怒ったり笑わせたりとしたが、表情とは別に気持ちは一気に落ち込んでしまっていた。
そんな私の気持ちを思ったのか妻からメールがすぐ届いた。「ガンでも初期の初期だから全然心配いらないからね」という内容だったので少し気を取り直せた。
空手の指導を終えて家に帰ると、「来週、ご主人と一緒に来てください」 と先生に言われたとのこと。
病状の詳しい説明と今後の対策について十分な話し合いを持ちたいとのことだった。

できるだけ早いほうがいいということで、仕事を調整し、7日の月曜日に一緒に行くことになった。説明は1時間以上かかるので先生の診療後ということになり、そして当日の夕方、あたりはもう薄暗くなっていた。妻と二人だけでこんな重苦しい気持ちで歩くのは初めてのことだった。

柏駅東口のサンサン通りから少し中に入った所のビルの4階がそのクリニックだ。
病院という雰囲気は全然なく、ホテルのロビーを思わせるような待合室でBGMも流れていた。
約束の5時に行ったが、先生が都合が付かず少し待たされた。その間雑誌を読みながら時間をつぶしたが、それらの内容は「乳がんになっても幸せになれる」とか「私の妻が乳がんになった」とか有名人の体験談などばかりで余計憂鬱になった。

10分ほどして診療室の中に通されたが、さすが待合室と違ってここは病院の雰囲気。
白衣を着た先生、レントゲン写真を見るためのボード、そして宣告を受ける不安そうな患者夫婦。
テレビのドラマではよく見かけるおなじみのシーンのようで、いやな役回りだった。

先生の話はガンの発生やその症状、そして転移するタイプかそうでないかなど、説明はとても丁寧。乳房を上下左右から撮影したレントゲン写真にはくっきりと“ガン”らしきものが白く写っていた。
先生のお話では、たとえこれがガンであっても大きさは15ミリほどで、今のところ転移をしないタイプのようで、進行状況はステージ1(ステージ4以上は末期)という初期のものらしかった。

そして、話はいよいよ「手術」を含め今後どういう治療をするかという現実的なものになってきた。
ガンはどんなに小さくても切り取るのが一番だそうで、そのクリニックでも手術はできるが、先進技術を施すので保険が使えず自費になるらしい。その代わり最小の切開で傷もあまり残らず、外来として日帰りの手術でできるという。費用は50万円以上。

他のガンセンターや慈恵医大など信頼できる病院を紹介してもらい、保険でやってもらうこともできるが、転移や再発を考慮して乳房の切除量を多くするのが普通で、二週間ほどの入院になるとのことだった。しかし費用は保険支払いで15万ぐらいでできるようだ。

先生の話が1時間ほど続いた頃、「現在の状況ではほぼ乳がんの疑いがあるが、まだ確定ではありません」という話が出た。ガンと確定するには「細胞疹」が必要だという。
この「細胞疹」というのは、ガン細胞を注射針で吸い取り出して、それを専門の機関に提出して調べてもらうというもので、これでほぼ確定するという。

乳がんの疑いは強いが、まだ決定ではなかったのだ。少しだけ希望の光が見えた。
ここでもこの「細胞疹」ができるということなので、すぐお願いし、妻を残して6時半からのギターのレッスンに戻った。
月曜日の夜の生徒さんは女性が多く、若い女性の健全な胸がまぶしく見えた。
この診断結果は10日前後とのこと。

“自分の妻に限ってガンなんて‥‥” という言葉はよく使い古された言葉だが、現実味を帯びてきてしまった。
結婚してもう26年。二人の子供たちを一生懸命育て、私の会社をずっと手伝ってきてくれた妻。
家族のことを第一に考え、炊事・洗濯・育児、そして仕事‥‥。考えてみたら妻が自分だけで遊ぶことや、他の楽しみは殆どなかったのに気づいた。いつも家族一緒で楽しむことが好きだし、家族のことだけをいつも心配していた。
そんな妻に“乳がん”という過酷な十字架を一人で背負わすなんて‥‥。

でも妻が強い(あきらめが早いのか)のに驚いた。
「ガンならガンで仕方ないから、早く切り取ってサッパリしたい」とこちらの心配はよそに心が決まっていた。
しかも、健康保険料払っているし、アリコの入院保険料も出るので、こういうとき使わないと勿体ないからと、「保険」が効く慈恵医大で入院・手術をしたいと言う。
Nクリニックで手術すれば、最小の切除でしかも日帰り。費用の50万や100万掛かったって、その方がいいという私の話などお構いなしだった。

小さな乳房の半分も切り取られたら、ほとんどなくなってしまうし、最悪なら全摘出もあり得るのだ。その手術をした人が親戚にいるが、片方の胸が丸々えぐられているらしい。
「できるだけ小さく切除」これが一番重要だった。いくらかかろうとNクリニックの先生にお願いしよう。できるだけのことをしたいと思った。

2月の19、20日にギター教室のスキーツアーを計画していたが、1月からこんな状況が続いていたので、どうしても気が乗らず、行くとも行かないとも中途半端な気持ちが続いた。結局行かなかったが、楽しみで予定を明けてくれていた人には迷惑を掛けてしまって申し訳けなかった。
妻も 「ギターの人達と一緒にスキーに行っても、もう女性同士で一緒にお風呂に入れないね」と笑っていた。家族や若い仲間達と行くスキーは楽しみだったのに残念だった。

そして翌週の水曜日がきた。この日は「細胞疹」の結果が出る日。
検査結果報告は「良性の腫瘍」ということで、なんと「ガン」ではなかったのだ。ほとんど「乳がん」と思い続けていたので、この報告は嬉しかった。
妻は「お金を使わないで良かった」と、それこそ小さな「胸」を撫で下ろしていた。

その日の夜は俄然嬉しくなってパソコンのメールを開いていたら、迷惑Hメールがいっぱい来ていた。
普段なら開けることはないが、つい調子にのって「女子制服図鑑」なるものを開けてしまった。
さらに調子にのってクリックすると、突然「ご入会ありがとうございます。3日以内に入会金五万円を振り込みなさい。振込がなければ法的手続きを‥‥」という内容のいわゆる恐喝まがいの「ワンクリック詐欺」だった。
「法的手続きをお願いします」と返信してやったが、やはりそれっきりだった。
心配したり、喜んだり、驚いたりとにぎやかな一日でした。

でも、ふと思った。
若い女性なら乳首のまわりにこんもりと、しかも弾力のある膨らみがあるが、妻のそれは子供達が随分お世話になり、既に“使用済み” のもの。乳首も乳房も随分と下に下がっている、というより落ちているのだ。
乳房の上部にガンと言っても、乳首と乳房ははるか下に “避難” しているのだから、もし手術となってもガン以外切取られる部分はほとんど無かったのでは?
さらに、もし乳房の下部のガンだったら、どんなに小さくても「全摘」だったかも知れなかった。

我々夫婦も50才代。自分の親が老いてきた現実、そして自分たちに何が起こっても不思議ではない年齢になったんだ、と改めて考えさせられてしまった。

《息子の留年》

妻の「乳がん」騒動一件落着したら、今度は息子の智史の事が気になってきた。
バイトに精を出し過ぎ単位が不足していて、四年生への進級がヤバイ状況にあるらしい。妻は「留年したらどうしよう・・」「お金も大変だし・・」「就職だって難しくなるし・・」と相変わらず心配性だ。

息子は息子で「あと2単位取れればなんとかなるし、課題出せば大丈夫。」「最悪、進級判定の前に担任や教授に掛け合う」と、こちらも相変わらず危機感が乏しい。

そんな進級がかかっている時期なのにアルバイト(なんと予備校講師!)したり、スノボーに行ったり、大学の課題も期限ギリギリで提出したり、さらに進級も決まっていないのに就職活動をしたりしているのが不思議だった。
就職の「内定」が取れれば、「温情進級」があるかも、と浅はかな期待をしているのかもしれなかった。
でも、私からすればやっぱり “進級も決まっていないのに、就職活動なんてバカじゃなかろうか?” という心境。

息子が就職用のエントリーシートや履歴書を書くのに会社に来ていて、「大変だ。履歴書に貼る写真を撮るの忘れた!お父さんデジカメで撮って作ってくれない」 と言ってきた。

仕方なく顔写真を撮ってあげたが、何と顔が丸いんだろうと思い、写真をワードに貼り付けてマウスで上下に少し伸ばしてあげた。「ウンこれはいい!顔が痩せて見える。これで絶対採用されるぞ」と私も自画自賛。証明写真ではこんな事はできないけど、パソコンはやっぱり便利だ。それを写真用紙にプリントして履歴書に。
しまった!いつしか私も「就職活動」の片棒を担がされてしまっていたのだ。こんなことより大学だろうよ!

ホントに就活は熱心で、有名な予備校への採用試験も1次、2次と順調に進み、あとは最終面接を残すのみとなっていたようだった。
この予備校は神奈川が本部らしく、もし進級できて就職が決まったら卒業後家を出るらしかった。

ちょっと複雑な心境になってしまった。進級ができればあと一年で家を出てしまうと思うと、これは正直辛いものがあった。
家族というものは一度家を出てしまうと、もう一緒に生活をすることはほとんどないからだ。
できれば進級できて、就職しても家から通勤してほしいと思うのは親の勝手な言い分かもしれない。

最近、息子との会話は主に台所の換気扇の下だ。
我が家で喫煙が許されている唯一の場所で、深夜にどちらかがタバコを吸って換気扇が回っている音がすると、つい同伴してしまうのだ。
深夜なのに、アルバイトや大学、将来の話などでいつも盛り上がってしまう。アルバイト先の新浦安校ではエースと呼ばれ、先日も室長賞をもらい、春からは主任に昇格するとのこと。バイトはかなり頑張っているようだ。

そんな話の中でも、「もし留年したらせっかく1年あるんだから、公務員試験や英語を勉強したり(大学の勉強以外はやる気満々)、これもあれもやりたい」としょげるどころか意外に積極的。
「お父さんはバイトや浪人して3年遅れて大学に入ったけど、お前は留年したって浪人の1年を入れてもまだ2年だ。お父さんを超えられないな」と自慢にもならない話になってしまったりもした。

長い人生、1年や2年の留年など私は全然無駄だとは思っていない。拘束されない豊富な自由な時間は貴重だからだ。
私も高校を出て3年目の浪人となった時、友達から貰ったギターを一人で始めた自分を思い出した。
思えばあの時にギターと出会ったことが、自分の人生を決めたのかも知れなかった。

そして3月の中旬、期待の救済措置も温情進級もなく、たった1単位の不足で留年が決定。これで頑張っていた就活も白紙に戻った。
出遅れた親と落ちこぼれの息子、やはり親子だなぁと思った。将来に対してお互いあまり危機感が無いのである。
でも息子には、親馬鹿ながらいい所がいっぱいあると思っているので、あまり心配していない。
この貴重な一年で何か掴めるといいし、成績はそこそこながら無事卒業ができればいい。