静岡で生まれた幼年時代から中学生までのアルバムです。



これは多分「七・五・三」の時の記念写真のようです。丁度長男が七歳、次男が五歳、そして私(真ん中で抱かれている子)が三歳の頃です。

後ろ真ん中が母親で、右のお姉さんは母の兄の子供(姪)の“ひろこネエちゃん”。この頃母の家に同居していたようです。

人生は面白いもので、この“ひろこネエちゃん”の長女と、うちの次男の兄貴が結婚して、現在は大分の実家に住んでいます。

私が生まれたのは静岡県静岡市(古庄)。
歩き始めたら、近所でも有名なかなりのワンパク坊主のようでした。

普通 “記念写真” というものは、父親も一緒に家族全員で写るものですが、ここには何故かいません。 母は生涯「シングルマザー」 だったからです。
と言っても「母子家庭」という暗く、寂しいなんてことは我が家には全然なし。いつも毎日のように我が家には人が集まっていたし、又母親が全てを見守ってくれていたので、私はのびのび自由に楽しく育ったって感じです。



右の写真は多分4〜5才ぐらいのものです。
静岡県の古庄というところで母が家を建て、母と男ばかり三人兄弟の住まいでした。
近所には友達も多く、写真の女の子は“よう子ちゃん”。
人生初めての “ガールフレンド” だったかもしれません。

“よう子ちゃん”に比べて私の方がかなり日焼けしているところを見ると、今同様「アウトドア派」かも。

杉板の壁や塀が昭和30年代を感じさせます。





静岡県で生まれ、“古庄”という所に小学2年生までいましたが、3年生からは大分の安心院町(あじむまち)という所に引越ししました。
ここは母親の実家の近くで、盆地の山あいの本当の田舎。
静岡にいる時に母は少しずつ貯めたお金で株を買い、それが大当りで家を買えるほどに儲かったようです。(これは本当らしい)

ここから母は経済的に自立して、小学校の裏門で小さな文房具店を始めたわけです。
小さな店と家でしたが、兄弟3人と母の4人暮らしには十分の広さで、店も近くの文房具店2軒をつぶすほどに繁盛しました。
相変わらず勉強はできませんでしたが、体育だけは得意中の得意で、家庭訪問の時に先生が “工藤君。ありぁサルですね” と言っていたようです。

都会(静岡でも大分から見れば都会)から引っ越してきたせいか、私も兄たちも人気者で学校や家でも友達には十分恵まれ、山や川に毎日のように遊びに行っていたものです。

写真上 : 左から次兄と叔母(母のお姉さん)と私(小学4年生くらい)
写真左 : 左から長兄、私(学生服を着ていますが、小学5、6年生です)、次兄、叔母(母のすぐ上のお姉さん)




大分の安心院(アジム)という田舎には小学3年生から6年生までいましたが、文房具店をしていた家は、母の知人に見てもらって、大分市の鶴崎という大きな町に引越ししました。

そこで今度はでっかく靴屋さんを開店。(東京オリンピックの年)
(多分私を大学まで行かせるには、田舎の文具店では無理と思い、思い切って町で商売をしたかったのかも知れません)

上の兄二人は名古屋の叔母さんの所に行って、そちらの学校に転校してしまったので私と母の二人だけの生活でした。

上の写真は中学1年生の時のもので、右が初めての友達。
名前は植木等。名前を聞いてビックリしたものです。
下は坊主頭になっているので中学2年生ぐらい。(おもちゃの拳銃を持っているところ)

部活は初めは剣道をしようと思って母に言ったら、「剣道具は何万円もして高いから、水泳やんなさい。水泳はパンツ一丁だから」と言われてすんなり水泳部に入部。

専門はバタフライと背泳。ともに大分市で2位が最高。
身体が小さいわりには良くがんばってました。

この頃初めて卓上ステレオと勉強用にと録音機械を買ってもらいました。当時の私としてはとても高級品です。

名古屋に行っていた兄から初めてビートルズやPPM(ピーター・ポール&マリー)のレコードを買ってもらい、それを毎日聞いてました。どの曲を聞いても飽きなかったので、音楽に目覚めた時期だったかも知れません。

このPPMは女性一人と男性ギター二人で主に反戦歌を歌っているグループで、その影響でクラシツクギターを買ってもらいました。早速 「一週間で弾けるギター」 という教本をまじめに一週間やりましたが、その先がなかったので止めてしまいました。近くにギター教室があったら、もうちょっと人生変わっていたかも知れませんね。

“英語の勉強をするから” と言って買ってもらった高級・録音機械は、自分や友達の「オナラ」を録音し、それを聞いて喜んだり、TV番組の「ひょっこりひょうたん島」のお話ぐらいしか録らなかったと思います。
母は母で私の「寝言」を録音して、「お前、こげんこつ喋っちょったぞ」と自慢してました。

母の靴屋さんも順調にいき、部活に、遊びに、勉強にと充実した楽しい毎日を送っていました。
成績も中学入学の時は360人中250番だったのが50番ぐらいまで上がり、県立高校そして大学への希望も持つようになってきました。
ところが中学3年生の冬、高校受験を目前にした時期に全く予期せぬ事態が‥‥‥。